大阪のライター オフィス「おふぃす・ともとも」代表ブログ

大阪在住のライター高野朋美(おふぃす・ともとも代表)です。最新の実績、仕事への思いなどもご紹介。

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ローレルスタイル「グラマラス・ピクニック」のコピーを担当しました。

ローレルスタイル

今回の近鉄不動産「ローレルスタイル」

大人のピクニックともいわれる「グラマラス・ピクニック」がテーマでした。
ピクニックといえばファミリーですが、大人だけのゴージャスなピクニックって、いいですよね。
わたしは日本酒が好きなので、ワインを日本酒にかえて楽しみたいな、と思いました。

それにしても、ピクニック・バスケットが素敵すぎ!
これを持って田んぼに行って、田植えや稲刈りできたら最高!と一人妄想するのでした。
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文章はビジュアル

私は、文章はビジュアルだと思っています。
本来、文字というものは、読んで初めて意味が分かるものです。
でも同時に、見た目のデザイン、ビジュアルでもあるのです。

いい例が、Tシャツに書かれている英文です。
ときどき「ぜんぜん文法がなっていない…」というTシャツの英文を見かけますが、あれは、字のビジュアルがかっこいいからそうなっているわけで、決して英文を読ませようと思って書かれたものではありません。

同じように、外国人が作った日本語のTシャツにも「意味がわからない…」という日本語が書いている場合があります。
それもやっぱり、日本語の字体、ビジュアルがかっこいいから、使っているのです。

私たちプロのライターが書くものは「意味がわからない」では困るのですが、きちんと伝わる文章であることはもちろん、文章のビジュアルもまた、大切にしなければならないと思っています。

例えば、誌面をぱっと見たとき、漢字だらけの難しそうな文章が目の前にあったら、人は読もうと思うでしょうか。
多くの人は「難しそうだ」と思って目をそらすでしょう。
でも、ひらがなやカタカナがほどよく混じり、易しそうな印象を抱かせる文章なら「読んでみようかな」と思います。
ぱっと見たとき、読みたいと思うか、思わないか。
それを左右するのが、文章のビジュアルなのです。

以前からよく思っているのですが、原稿を書くとき、ワードではなく、あらかじめデザインされた誌面にテキストを入れたい。
そうすれば、字ずらを見ながら原稿を書けます。
つまり、文章のビジュアルまで考えながら、原稿を考えていくことができます。
文というものは、どこで句読点を入れるか、どこに段落を入れるかで、ビジュアルが大きく変わります。
文章もまた造型のひとつだと考えるなら、ビジュアルを無視して言葉をつむぐわけにはいかない、と思っています。

私が「この文章はビジュアルがものすごく美しい」と思っているのは、川端康成の小説です。
表現も当然すばらしいのですが、私はその字ずら、ビジュアルに感動します。
見た目の文字の並びが、本当に芸術的。
見ているだけで「ああ、いいな」と思えてくるのです。
川端康成が文章のビジュアルまで考えて小説を書いたかどうかは、分かりません。
でも私の目には、あの文章がすばらしい造型に映るのです。

思いが伝わる文章は当たり前。
それプラス、造型として美しい文章を、書いていきたいですね。

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年を重ねる

40代後半を迎え、いまようやく「年齢」を感じ始めています。
40代前半の頃は、まだ自分は若いと思っていました。
きっと気持ちは30代だったと思います。
しかし、さすがに最近は「年相応かもしれない」と思ってきました。
アンチエイジングという言葉がありますが、やはり人間は、生きている以上、老いる。
それが自然の摂理だと思います。

最初は、自分の年齢を受け入れるのに、かなり抵抗がありました。
いやいや、まだまだ大丈夫。若いままでいけるし、若くあり続けなければならないと、気持ちだけ先走っていました。
しかし、見た目はどうしても年を取ります。しわも増えるし、白髪も出る。
私は「30代」と思っていても、現実はそうはいかないのです。

でも、年齢を少しずつ受け入れる中で、私の中に、別の考え方が生まれました。
若さは確かにすばらしいし、ずっと若いままでいる努力も大切。
だけど、それよりも大切なことがあるのではないかと。
人は、若さを失う代わりに、別のものを得ているのではないかと。

それは「経験」という輝きです。
気がつけば、もう46年も生きていますが、この歳月の積み重ねは何物にも代えがたい。
毎日さまざまな人と接し、言葉を交わし、物を食べ、笑い、いろいろなことを考え、小さな行動を繰り返してきた46年。
この積み重ねがあるからこそ、いまこうやって仕事ができるし、新しいことに挑戦できるし、誰かの相談に乗ったり、サポートできたりするのだと思います。
20代の私では、こうはいかなかったでしょう。

以前、「心の中の龍」の話をしたことがありましたが、私は、年齢を経ているというだけで、心の中の龍はある程度育っていると思います。
若い人が逆立ちしても手に入れられない「時間の経過」を、私たちは手にしています。

そんなふうに考え始めて以来、見た目の若さへの執着は、だんだんと薄らいでいます。
ただ、まったくなくなってはいません。
いまでも、若い人たちのお肌を見ては「なんであんなにきれいなんだろう…」とうらやましく思っています。
ですが、何が何でも若さにしがみつく気持ちは、いまはありません。

これから一年一年、私は老いていきます。
でも、若いころよりももっと重厚感のある経験を、一日一日積み重ねています。
50歳になったとき、その経験はどんなふうに生きてくるのだろう、私はどうなっているのだろうと思うと、何だかワクワクしてきます。
きっと白髪はいまより多いし、しわも増えている。
だけど、経験を重ねた私の表情と雰囲気の成長のほうに、いまは関心があるのです。

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ゴーストライティングという仕事

ゴーストライティングという仕事が好きです。
一時期、ゴーストライターが社会問題になったことがありましたが、幸い、こちらまで飛び火はしませんでした。
というより、社会問題化したゴーストライターと、私が行っているゴーストライティングとは、そもそもまったく種類が違うものです。

私は、ゴーストライターの仕事を「いたこ」と呼んでいます。
そう。死者の霊を呼び出し、その思いを家族に伝える、あの「いたこ」です。
(ちょっと例えが違っているかもしれませんね)

世の中には、伝えたいことがたくさんあるのに、それを伝えられない方々がたくさんいます。
仕事に追われて文章を書いている時間がない方、文章力に自信がなく執筆に踏み出せない方、自分の言いたいことを上手に表現できない方。
そんな方の「筆代わり」となり、その思いをお聞きし、文章にしていくのが、私の行っているゴーストライティングです。

ゴーストライターって、どんなことしてるの?と時々聞かれます。
ライターによってスタイルは違うのでしょうが、私の場合は、まずお相手にお会いし、その思いをじっくりと聞き取ります。
そこから文章構成や目次立てを考え、具体的な文章を起こしていきます。
私がネタをねつ造したり、お相手が思ってもいないことをフィクションとして書くことはありません。
ベースにあるのは、常にその方の「思い」。
それを土台に、表現をふくらませて、一般の方が読みやすいものにしていきます。

私がこの仕事の醍醐味だと思っているのは、聞き取りを通じて、その方の人生の物語に触れることができるところ。
生きてきた道のり、その中で培ってきた考え方や感情、そして今感じていること、考えていること。
それをお聞きする時間は、まるで1本の映画を見ているように、興味深くて重厚感のある時間です。
私が思ってもみない気づきや、ハッとするような哲学をお聞きすることができると、とても興奮するし、ワクワクします。

時には、つらい過去を思い出され、聞き取りの最中に泣き出す方もいらっしゃいます。
でもそれも含めて、その方にとっては大切な人生の記憶。
冷静に、静かに聞き取っていくことを心がけています。

私は、人の人生ほど面白いものはない、と思っています。
ゴーストライターは、それを文字にするお手伝いをする仕事。
この仕事に関われることを、幸せに思っています。

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親世代の皆さんへ

地域イベントの「八尾バル」や日本酒の会を通じて、たくさんの学生たちとお付き合いしています。
私は、自分の目の中にいる人たちと、上っ面のようなお付き合いをするのはイヤなので、けっこう深くまで立ち入ります。
自分の心の中をのぞかれるのは、学生にとって心地よいものではないと思います。
そして慣れてもいない。
だからこそ、あえてそれをしています。

ときには本音を聞くため、かなりキツい言葉を浴びせることもあります。
相手の人格を傷つけないよう細心の注意を払っているつもりですが、傷ついている学生もいるでしょうね。
この場をお借りしてお詫びします。
でも、そうしてでも本音でぶつかる経験をしておかないと、生きる力は身につかないような気がしています。
恥ずかしさと怖さを感じながらも、心の中にあることを表に出し、本音を言ってこそ、ようやく議論と理解のスタート地点に立てる。私はそう信じています。

ガラスのハートを傷つけないよう、壊れものを扱うようにソフトに接し、上っ面だけの会話で終えてしまうなんて、私にはとてもできません。やわなハートなら、とっとと割ってしまいます。
相手が大切で好きであればあるほど、優しさは影を潜め、厳しさが前に出てきます。
だから私は、学生にとって「怖い存在」です。
でも、それが私の役割かなと思っています。

私にも23歳の子どもが1人います。
もう学生を卒業して就職していますが、仕事中毒のような母を持って、きっと寂しさやつらさを経験したと思います。
ダメな母親ですが、一つだけ「私の子育ては間違っていなかった」と感じていることがあります。
それは、必要以上に甘やかさなかったことです。
自分でできることは、自分でやるよう言ってきました。
進学のときも、就職のときも、具体的に手を貸したことはありません。
わが子の就職が決まったのは卒業の二ヶ月前でしたが、なかなか内定が出ず、わが子が苦しんでいたときも、私は何もしませんでした。
それどころか、たとえこのまま就職できなかったとしても、おふぃす・ともともでは絶対にわが子を雇わないと心に決めていました。
そんなことをしたら、自分で選び、自分でつかみとり、自分の道を自分で歩くという「自立心」をつぶしてしまうと思ったからです。

私は、愛することと甘やかすことは違うと思っています。
私と同じ親世代の方々を見ていて思うのですが、子どもが失敗しないように、子どもがイヤな思いをしないように、あまりにも手を貸し、守り過ぎているような気がしてなりません。
そんなことをしたら、子どもの自立心はどんどん萎えてしまうというのに。
優しくして甘やかせば、確かに子どもは親のことを好きでいてくれるでしょう。ずっと離れずそばにいてくれるかもしれない。
でも、親は子どもより先に死ぬのが順当です。
そうなったとき、親がいなければ何もできない、失敗から立ち上がることもできない、そんな子だけが残されてしまう。
それでいいんでしょうか。
私たち親は、自立できない子を育てるために生きているのでしょうか。
そうではないと思います。

ディベートもできない、ケンカもできない、自分の想いも言えないような人間を、私の目の中にいる人からは出したくない。
それが私の「親心」です。
わが子は自立し、私の手元を完全に離れましたが、わが子と同じ年頃の学生たちが、私のそばにいてくれます。
そのことがうれしいし、感謝しているし、一人ひとりを愛してもいます。
だから、厳しく接しています。
愛すれば愛するほど優しくなるのが通常なのでしょうが、私は逆。どんどん厳しくなります。
それでもみんな懲りずにそばにいてくれるのですから、案外、学生たちは打たれ強いのかもしれませんね。

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書けなくなるとき

たまに「書けなくなること」があります。
スランプに陥る、といえばカッコいいのかもしれませんが、わたしは「プロにスランプはない」と思っています。
というより、スランプなんでおこがましい。
お金をいただいている以上、そんな「余裕」は許されないし、クライアントからご依頼いただいて取材・執筆するライター業は、そこまで芸術的な仕事ではない、と思っています。

書けないとき、私はどういう状態になるか。
一言一句を気にするあまり、文章が出てこなくなるのです。
こういうことを書きたいという感覚はあるのに、それを60%も表現できない。
なんか違う、なんか違う、と思いながら、時が過ぎていきます。

その原因がどこにあるか、分析しながら七転八倒しているのですが、なかなか分からない。
でも、ちょっとだけ見えてきたことがあります。
文章を型にはめようとし過ぎているとき、「書けなくなる」という現象が生まれてきます。

私は日ごろ「ライターが書くものにセンスは必要ない。必要なのはロジックだ」と言っているし、パートナーライターの原稿をチェックするときも、ロジックに当てはめて校正しています。
だから自分が書くときも、ロジックという型を意識します。
でも、それが過剰になったとき、文章を俯瞰してみることができなくなるようです。
重箱の隅をつついてしまうというか。
もっと自分の表現力を自由にしてあげるべきなんだろうか、と自問自答しています。

もう一つ、インタビューで語られたことの「順番」にこだわりすぎるときも、書けなくなります。
インタビュー原稿は、取材の流れ通りに書く必要はありません。
読み手にその人の思いや考え方が伝わることが最も重要なので、取材で最後に出てきたことを、最初に書いてもいいんです。
ところが、どういうわけだか、取材の順番通りに書かなきゃ、という縛りを知らず知らずのうちに設けてしまっている。なぜそうなるのか、いま分析中です。

書けないときは、お通じがないときみたいな、心地悪く、目詰まりを起こしている感じがつきまといます。
でも「待てよ。こことここの順番を思い切って変えればいいんじゃないか」と思って試した結果、伝えたいことがすっきりまとまったとき、自分は天才ではないかと思います。
これこそおこがましいですね(笑)。

書けないときは苦しいのですが、そんなふうに、書けない、書けるのメリハリを繰り返しているからこそ、書いている瞬間瞬間が面白いし、やめられないのだと思います。

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名もない職人

日ごろ、あまりテレビを見ないのですが、先日、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組を久しぶりに見ました。
登場していたのは、義足の神様と呼ばれる、義足造りのプロでした。
その人の足に合わせ、自然に歩ける義足を追求し続ける。
妥協を許さないものづくり魂と、義足に向かう姿勢を見ていて、
「とても深くてきめ細かい哲学を持っているんだな」と感じました。

ただ、こうも思いました。
あまりにも繊細で、あまりにも数値化できない「プロの哲学」は、その背中を見るだけでしか、習得できないのだろうか。
どうにか形にして「手渡し」できないものだろうかと。

ものづくりの技と同様、「書く」という技術も、手渡しできない無形のものです。
ある程度はできるのですが、細部・深部となると言語化が難しくなります。
文字を扱う仕事なのに言語化できないなんてと、自分のふがいなさを呪うのですが…。

ただ、私はライターの技術を言語化したいし、できるようになりたいと思っています。
言語化することで、多くの人に技術を手渡しできるようになるからです。
比類のないプロ中のプロの技は、確かにスゴい。
でも、たった一人でできることなんで、限られているのではないだろうか。
プロ中のプロと同じスキルを持つ人が10人いたら、もっともっとできることは広がっていくのではないだろうか。
そう思っているからです。

私は書く仕事を「センス」という言葉で片付けたくはない。
極みの域までいけばセンスが関係しているのかもしれませんが、大半はセンスではなく、理論で何とかできるものだと思っています。
それもしないのに、それすらできていないのに「物書きはセンスがないとできないからね」なんて、口が裂けても言いたくありません。

私たちライターができることは、人が言葉にできないことを、言葉で表現することです。
それは持って生まれた才能ではなく、理論に沿った練習と経験で可能になります。
ロジックとしてカタチにできるものだし、手渡しできるものだと思っています。

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言葉の使い方

言葉の使い方ひとつで、相手を悲しませることも、喜ばせることもできます。

仕事柄、メールでやりとりすることが多いのですが、メールの難点は、声と温度感が伝わらないこと。
文字だけで相手の気持ちまで判断しなければならないところが、クセものなのです。

だからこそ、メールで「どんな言葉を使うのか」が重要。
特に、何かをお断りするときは、ちょっとしたことがお相手の心情を変えてしまいます。

私の場合は、相手に何か仕事を頼んだ場合、「すみません。できません」という返信がくると、がっかりします。
この人なら!と思って仕事を頼んでいるので、何だかふられた気分になるのです。
でも、下のような返信だと、気持ちが明るくなります。

「すみません。ここ数日はできそうにないんですが、来週には時間ができるのでできると思います。来週以降の対応でもよろしいでしょうか?」
「全部はできそうにないですが、これとこれはできると思います。部分対応になってしまいますが、いかがでしょうか」

ここから伝わってくるのは「なんとかこちらの期待に応えよう」というマインド、サービス精神なのです。
相手のために何ができるか。それを真剣に考えると、「こうすれば、少しでも力を貸せるんじゃないか」というアイデアが出てきます。
そのアイデアが提案の種になったりします。

上記2つの返信は、こちらに「提案」をしてくれています。
こんなふうにすればできますけど、いかがでしょうか、という提案です。
その姿勢が、相手を喜ばせます。

ところが、頭から「できない」「無理」と言われてしまうと、相手は「ああ…この人は自分に力を貸してくれないんだ」と思います。
私なんか、まさにそうです。かなりシュンとします。

おふぃす・ともともの外部パートナーに、言葉の使い方がとてもうまい人がいます。
「高野さん、この金額でお仕事をお受けするのは難しいですが、代わりに、こんなふうにしたらどうでしょう」
と、必ず代案を出してくれます。しかも複数。
私が彼女に絶大な信頼を寄せていることは、言うまでもありません。

できない理由を並べた返信より、代案がたくさん並んでいる返信のほうが、誰にとってもうれしいはずです。
それは「力になりますよ」というメッセージなのですから。

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言ってはいけない言葉

仕事上、言ってはいけない言葉があると思っています。

「そんなことも分からないの?」
という言葉です。

ただ…。これが喉元まで出かかることが、ときどきあります。
(実際に出てしまうことも…)
そのたびに「ああ、私はまだ修行が足りないな」と猛省してします。

この言葉を言いたくなるとき、私はこんなふうに思っています。

「そんなの、社会人の常識でしょう」
「どんな教育を受けてきたの?」
「マナーとかエチケットとか人への思いやりとか、ぜんぜん分かってないんだね」

いずれもきつい言葉ですよね。
こうやって文字にするだけでも、かなり辛辣です。
これらの言葉を浴びせられたら、人はどんなふうに思うでしょうか。
「自分を否定された」と思うのではないでしょうか。

社会人の常識も、マナーも思いやりも、それを実践できないのは、その人に悪気があるからではありません。
「知らない」あるいは「教わっていない」からです。
知らないことは、実践のしようがありません。
それを「常識がないんだね」と責められても、本人はどうしようもないでしょう。

ああ、知識として備わっていないんだ、だからできないんだと思えば、きちんと教えよう、伝えようという気持ちがわいてきます。
それは、怒りの感情ではありません。理解の感情です。
その感情が心の中にあれば、「そんなことも分からないの?」と相手を責める言葉は出なくなります。

このことを、私は頭では理解しています。
でも、ときどき怒りの感情が出てしまうのは…。
やっぱり修行が足りませんね。

日本屈指の指揮官として、今も語り継がれる山本五十六氏。
数多くの名言を残しており、私が座右の銘にしている言葉もいくつかあります。
その中のひとつが、こちらです。

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実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。
なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。

今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。

その若者が、こうして年を取ったまでだ。
だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。
何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。
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身につまされるというか、耳が痛いというか。
私たち大人が、心しなければならないことかもしれませんね。

今の若い人は、決してダメなんかではない。
たくさんの能力と可能性を秘めている。
ただ、大人がそれを引き出せていないだけ。
山本五十六氏の言葉は、そのことを思い出させてくれます。

そういえば、私も20代のころ「今どきの若い人は…」と言われました。
それがこうして今、大人になっているのですから、私もまた、たいしたことありませんね(笑)。

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