大阪のライター オフィス「おふぃす・ともとも」代表ブログ

大阪在住のライター高野朋美(おふぃす・ともとも代表)です。最新の実績、仕事への思いなどもご紹介。

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「あっという間」と言うのはもうやめよう

今年も残すところあと2日です。
この年末、「あっという間の1年でした」という声をあちこちで聞きました。
本当ですね。1年経ったとは思えないほど、すごいスピードで時間が過ぎているような気がします。

おそらく、気のせいではなく、現実的に、時間があっという間に過ぎているのだと思います。
特に私たちがいる情報産業の世界は、1年1年スピードが速まっていると実感しています。
早く、効率的に、しかも少数精鋭で。
1人にかかる仕事量が多くなる分、その人の仕事処理能力が磨かれ、短時間で質の高い仕事ができるようになります。
これはいいことでもあり、反面、よくないことだとも思っています。
効率や処理能力がアップする一方で、余裕、遊び、ムダがなくなっていく。
一見ムダだけど、実は必要なものが削られていくという一面もあると思います。

「あっという間ですね」という言葉の裏には、忙しくてぜんぜん余裕がありませんでしたよね、という言葉が隠れているように思います。
じゃあ、効率を重視するのをやめて、もっとゆとりを持ちましょう、というライフスタイルになるかというと、おそらくそうはならないでしょう。
1年が過ぎるスピードの加速は、これからも止まらない気がします。
そして、加速の中で振り落とされたり、押しつぶされたりすることも出てくるでしょう。

じゃあ、どうするか。
悲観しても嘆いても始まりません。
その環境下でベストを尽くす道を探すことが、いまはベストだと思っています。
私も毎日忙しいですし、パートナーライターからは「高野さん、たまには休んでください」と心配されます。
でも、意外と遊んでいます。休日らしい休日はありませんが、きちんと寝ているし、大好きな日本酒も飲んでいる。韓流ドラマも見ています。

忙しいのに、どうやってゆとりを持つのか。
そのコツは「時間の使い方」にあると思います。
私にとっては、30分が貴重です。30分で遊べます。仕事を1つこなせます。30分長く寝れただけで、疲れの取れ方が違います。
たぶん、超多忙と言われている方々は、時間の使い方が格段にうまいのではないでしょうか。

時代のスピードが「あっという間」であることは、もう分かりました。
時代がそうくるなら、私は、あっという間の中でどう過ごすかに目を向けたいと思います。

2016年の残り2日間、私は実家に戻ります。
田舎で一人暮らしをする父との時間、大掃除をちょっとだけ手伝う時間、近所のおばちゃんとちょこちょこ会話する時間、今年のまとめをする時間、墓参りする時間。
全部が大事な時間であり、私の豊かさとなってくれます。
高速の時間の中にありながら、遊びと余裕とムダを作り出す工夫をしようと思っています。
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本年は誠にありがとうございました!

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【12/28から1/4まで、おふぃす・ともともはお正月休みをいただきます】

本日27日が、おふぃす・ともともの仕事納めです。
みなさま、本年は本当にお世話になりました。
とても充実した1年でした。

来年は、弊社にとっても、弊社とお取り引きのある皆様にとっても、最高の1年になりますよう、全力を尽くしてまいります。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

なお、おふぃす・ともともは、年明け5日から営業再開いたします。
みなさま、どうかよいお年をお迎えくださいませ。

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残したい思い

仕事で、かなりご高齢の方を取材させていただくことがあります。
その方が亡くなった、というニュースを聞くにつけ、言葉を残すことの重みと大切さをしみじみと感じます。

11月、論語の伝道者であり、人間学や精神論の大家である伊與田覺さんが他界されました。
ちょうど1年前、PHP研究所のビジネス誌「松下幸之助塾(現在は衆知)」のインタビューに同席させていただき、原稿の構成を担当させていただきました。

ISBN978-4-569-81418-6.jpg

100歳を越えてもなおしっかりとした口調で、ずっしりと響く言葉を語られる様子を見て、人は年齢の限界を超えられるのではないか、と思いました。
しかし、やはり命あるものは、いつかはこの世を去るときが来るのだと、訃報を耳にしたときに思いました。

激動の時代に直面しながら、想像を絶する困難を乗り越え、たくさんの人を幸せにして来られた方の言葉は、その一つひとつに心に染み入るものがあります。
「この方が伝えたいことを文字にするのが、私の役目なのだ」と思うと、身が引き締まる思いがします。
ライターはとても重要な仕事をしているのだと、改めて感じずにはいられません。

戦前戦後の日本を支え、生き抜いた方が、少しずつ、この世を去っていらっしゃいます。
でも、その方がいなくなってもなお、言葉は残ります。
そしてその言葉には、この世への愛情、後世への温かいメッセージが込められているような気がしています。
苦労してこられただろうに、つらいこともたくさんあっただろうに、この世への恨み言は一切おっしゃらない。
それどころか、次の世代を担う人たちを思い、大切な教えを残してくださろうとしている。
インタビューではいつも、それをひしひしと感じています。

私の名刺には「思い 伝える」という文字が刻まれています。
「思いを伝える」のがライターの仕事だと思っているからです。
年齢を重ねられた方が、この世に残したい思いがあるなら、私はそれを文字にして、きちんと残していきたい。
しかも、次の世代の方々に伝わる言葉にして残したい。
そんな使命を帯びているのだと、生意気ながら思っています。
そして、こんな大切な仕事に携われることを、幸せに思っています。

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ローレルスタイル「星降る夜に癒やされて」のコピーを担当しました。

ローレルスタイル プラネタリウム

コピーライティングを担当させていただいている、近鉄不動産「ローレルスタイル」

今回のテーマは「星空」です。
最近、おうちで楽しめるプラネタリウムがはやっているそうですよ。
眠れない夜も、これをぼんやりながめていたら、いつのまにか眠りにつけそう。
星って、どうしてあんなにも人の心をなぐさめてくれるんでしょうね。

新年早々、三大流星群のひとつ「じぶんぎ座流星群」が見れるのだとか。
早起きが必要ですが、たまには明けやらぬ漆黒の空を見上げるのもいいかもしれませんね。

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失敗は一つの「反応」

失敗はみんな嫌いです。
できれば避けて通りたい。
どんな人であれ、そうでしょう。

しかし、成功した人と言われる人が、共通に語る言葉。
それは「失敗ほど学びになることはない」ということです。

仕事で、日本トップクラスの経営者の方々にお会いすることがあります。
堂々としていて、自信に満ちている方々がほとんどですが、聞いてみると、まず例外なく、どの方も失敗を幾度となく繰り返しておられます。
むしろ、常に順風満帆で、やることなすことすべてうまくいった、というスゴ腕経営者には、これまでお会いしたことがありません。
「成功者は必ず失敗と挫折を経験している。しかも何度も」
これが、何人もの経営者を取材してきた私の感想です。

ある経営者は、「経営者に成功体験はさして必要ない」とおっしゃっていました。
失敗したときこそ、いろいろなことを知ったり理解したりするチャンスなのだそうです。
成功すればむしろ慢心するので、かえって危険だともおっしゃっていました。

別の経営者は、「失敗は恐れるようなことではない。なぜなら、失敗とは一つの『反応』だから」とおっしゃっていました。
うまくいくかどうか分からないけど、とにかく行動してみて、それが失敗したとする。
それによって「ああ、この方法は違うんだ。だったら、こっちの方法を試してみようか」という道筋が見えてくるのだそうです。
もっと分かりやすく言えば、失敗とはリトマス試験紙の反応と同じ。
自分のやったことが酸性なのかアルカリ性なのかが分かることです。

ではなぜ、人は失敗が怖いのでしょう。
おそらく、失敗によって、自分のささやかな自信を喪失してしまうからではないでしょうか。
言い替えれば、プライドが傷つく、ということです。

では、プライドとは何でしょうか。
そう考えると、この「プライド」が自分の行く手を遮る“クセ者”であることが分かってきます。

私もそうなのですが、自分のプライドを掘り下げてみると、自分だけが執着している独りよがりな思い込みであることが多いのです。
自分は成功し続ける人であらねばならない。
良い成績を残せる人でなければならない。
周囲からいい人と言われる自分でなければならない。
私もこうした思い込みに囚われることがあります。

でも、自分が思っているほど、周囲は私のことを気にしていません。
絶対失敗しないのが高野だ、とも思っていないし、誰からも好かれる人望のある人間が高野だ、とも思っていないのです。
もっと別の部分に、私の価値や良さを感じ取ってくれている気がしますし、実際そうだと思います。

自分が人生哲学にしていたり、生きる理念にしていることがプライドであるなら、それは守り続けるべきでしょう。
でも、自分が思う大半のプライドは、自分を縛り付け、囚われの身にしてしまう単なるロープなのではないでしょうか。

それをはずすと、ものすごくラクになります。
そして、失敗が怖くなくなります。
成功する必要も、いい成績を残す必要も、いい人でいる必要もなくなるのですから。
トライ&エラーを「実験」だと思えるようになるのではないでしょうか。

とはいえ、失敗は今でも怖いです。
イヤなものです。
でも、昔ほど恐れる気持ちは、いまはありません。

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生きる力

私はよく「強い人だね」と言われます。
それよりもっと言われるのが「高野さん、怖いです…」という言葉なのですが(笑)。
怖いかどうかは置いておいて、強い人だと言われると、決してそんなことはないとお答えします。
弱い人間だからこそ、強くなろうと努力してきた、というのが正確だからです。

私は子どもの頃、「自家中毒」だと診断されていました。「周期性嘔吐症」とも呼ばれるようです。
ネットで調べてみると、元気だった子が急に嘔吐を繰り返し、何日か経つとまたケロリと元気になる、というのが症状のようですが、私の場合は違いました。
3〜4歳の頃だったので、私自身に記憶はないのですが、家族の話によると、急にぐったりし、意識を失ったようになっていたそうです。

原因は精神的なもの。ストレスや大きな刺激が心に負担をかけ、体の症状となって表れるというのがメカニズムだそうです。
私の実家は商売をやっていて、両親とも土日なく働いていました。だから、休みの日に家族でゆったり過ごしたことがありません。
それが、幼い私に「寂しい」「かまってほしい」という孤独感を抱かせ、心にストレスをかけたのではないか、ということでした。

ほとんど覚えていないので、本当に寂しい思いをしていたかどうか定かではないのですが、ただ、メンタル的に弱い子だったことだけはおぼろげに覚えています。
まず、同じ年頃の子とコミュニケーションがとれなかった。
内気で引っ込み思案で、自分から誰かに話しかけるようなことはありませんでした。

ほかの子のように、思い切り体を動かして遊ぶのも得意ではありませんでした。
傷だらけになってもジャングルジムに挑み、てっぺんまで上るといった積極性もアグレッシブさもゼロ。
食べることにも興味がなく、保育園の給食時は、いつも最後まで居残ってモタモタ食べていました。
あの頃の私がいまここにいたら、「なんて生きる力の弱い子だろう…」とあわれに思ったでしょう。

それがいま、「強い」「怖い」と言われるまでになっている。
こうなれたきっかけを、私は鮮明に覚えています。

保育園の年長さんのときでした。
私は一時期、登園拒否をしていて、むりやり保育園につれて行かれた日は、いつも激しく泣いて親を困らせていました。

ある日、母親の自転車の後に乗っけられて、保育園の門をくぐりました。自転車から下ろされ、母親が帰ろうとした瞬間、「おいていかないで!」と泣きじゃくるのが常。
だからその日も、母も先生も「また泣くぞ」と身構えていたと思います。

でもその日、私は泣きませんでした。
幼いながら「こんなことを繰り返していたら、自分はダメになる」と思ったのです。
ここはぐっと耐えて、いいかげん保育園生活に慣れなければならない、これ以上親を困らせてはいけないし、何より、このままだと弱いままの自分で生き続けることになる。
それではいけない、と思いました。
教室の柱をぎゅっと抱きしめ、自転車をこいで帰っていく母を見送りました。涙を目にいっぱいためてはいましたが。

その頃から、私は保育園生活を楽しむようになりました。
小学校にあがってからは、ごはんがとてもおいしくなりました。
友達とも遊ぶようになりました。ジャングルジムもブランコも好きになりました。

いまの私しか知らない人は、きっと信じられないと思いますが、私はとても弱い子だったのです。
でも、だからこそ強くなりたくて、両足を踏ん張ってきた。その積み重ねが、いまの私です。

生きる力の弱い人を、たくさん見てきました。
一歩を踏み出さなくては状況が何一つ変わらないのに、元気や勇気がなくて踏み出せない人。パワーがなくて行動できない人。そんな気持ちさえ起こらない人。
幼少の頃の私もそうでした。

でも、一つだけ偉かったと思えることがあります。
昨日までの自分と決別するため、教室の柱を抱きしめ、ぐっと耐えるという行動に出たことです。
他人から見れば「なんだ、そんなこと…」と思われるかもしれませんが、あれが私にとっての「強くなるための最初の一歩」だったと思います。

自分を変える最善の方法。それは「行動すること」だと思っています。
動いた瞬間、まわりの風景が変わり、自分の中の何かも変わります。
最初は怖いかもしれない。
でも動いてみれば、案外怖くもつらくもなく、むしろ気持ちの良いものだと気付くのではないでしょうか。

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おふぃす・ともともの名の由来

株式会社おふぃす・ともともが会社組織になったのは2年前。
フリーライターのSOHO事務所だったころから、ずっと「おふぃす・ともとも」という名称を使っています。

なぜ、こういう社名なのか。
私のことをよくご存知の方、私の名前を見た方は、みなさんピンときます。
私の名前は「高野朋美(たかのともみ)」。
親しい人からは「ともとも」、あるいは「ともさん」と呼ばれています。

自分の名前を社名にした、単純かつ短絡的な発想だな、と思われるかもしれませんね。
はい。実際、そうです。
SOHO事務所のころはそうでした。
しかし今は、ほかの意味があります。

ともともは、「共に」を二つ並べた言葉です。
お客様や取引先、仲間と共に話し合い、共に成長し、共に発展していきたいという願いを込めています。
私たちが手がける冊子、ホームページ、書籍、チラシといった媒体は、一人の力では到底できません。
たくさんの人が集まり、その力を結集することで良いものが出来上がっていきます。
ですから、誰かが一人よがりであったり、一方的であると、媒体づくりは頓挫してしまいます。

私は、仕事に関わる方々と、きちんと向き合いたい。
そして、議論してお互いの思いを伝え合い、理解を深めながら制作したいと思っています。
だから「ともとも」なのです。

私の名前「朋美」は、父がつけてくれたものです。
朋は「同朋=ともだち」からきており、友達といい関係を築けますように、という父の願いが込められていると聞いています。
字を見ると、月が仲良く二つ並んでいますよね。
二つ並んだら、月だって太陽になれるのではないか、なんて思ったりもします。
お互いに手を取り合って一つを成す。
「ともとも」の考え方とつながっているような気がします。

以前、とても信頼しているお取引先から、「おふぃす・ともともはSOHOっぽいので、もっと会社らしい社名に変えたほうがいい」とアドバイスをいただいたことがあります。
確かにそうだな、と思ったのですが、社名に込めた意味を思い返すたびに、まだ変えたくないな、という気持ちがわいてきます。

この先、社名変更はあり得ないことではありませんが、いましばらく、おふぃす・ともともでお仕事をさせていただきたいと思っています。

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秋の京都

桜の季節と、紅葉の季節は、京都に近づかないようにしていました。
なぜなら、とても混むから。
きれいな風景が見られることは百も承知ですが、あの混雑に巻き込まれるのはどうも苦手でした。

でも先日、とあることがきっかけで、紅葉シーズン真っ最中の京都を訪れました。
結論から言えば、行ってよかった。
混雑を押してもなお行く価値が、京都にはあると思いました。

訪れたのは、清水寺と高台寺。
清水寺は言わずと知れた「清水の舞台」で有名な寺社です。音羽の滝と呼ばれる霊泉が「清水」の名の由来になっているそうです。
かなり高台にあるだけに、ここからの眺めは壮観。赤い紅葉だけでなく、適度に緑が織り混ざった山の景観がすばらしいのです。
自然のままに残る景色と、壮大な寺院建築がいい具合に折り重なっている気がしました。

高台寺は、豊臣秀吉の正室、ねねが建立した寺として知られています。
こちらのお寺は庭園が秀麗。清水寺とは違い、美しく整備された感にあふれているのですが、紅葉だけでなく、竹林あり、茶室ありと、人の造った美と自然の作った美が溶け合っていると思いました。

日本には、京都に似た風景を持つ「小京都」と言われる土地がたくさんあります。
でも京都に来ていつも思うのは、図られた美しさが随所に散りばめられているということ。
手つかずの自然とは違う、人が巧妙に仕組んだ自然美を満喫できる場なのです。
そういう意味では、人間味にあふれている。
京都のそんなところが好きです。

日本人は四季の見せ方、構成の仕方が上手。
秋の京都で、それを実感しました。
幾多の文人が京都を舞台に物語を書いたように、ここはなぜだか、文章を書きたくなる場所。
人の創造欲をかきたてるところなのだと思います。

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やっぱりプロはすごい

正直に言います。
わたしは「校正」が苦手です。
原稿は何度も推敲し、誤字脱字や間違いがないように細心の注意を払っているのに、100%誤字がなくならない。
どうしてだろう…。推敲が足りないのかな、とちょっと悩んでいました。

でも先日、パートナーライターの一人が、とてもいいことを教えてくれました。
彼女は編集ライターを養成する講座に通っているのですが、講師の一人が、校正についてこんなことを語っていたそうです。
「文章を『読む』から誤字脱字を見つけることができないのだ」

私はこの言葉を聞いて「なるほど!」と思いました。
目からウロコが落ちたような気分。
私が誤字脱字を見つけられない理由が、この言葉ですべて分かったような気がしました。

私たちは文章を読むとき、全体の意味を理解しようとしながら読み進めます。理解しようとするから、多少間違いがあっても、頭の中で正確な意味をとらえてしまうのです。
例えば「ようやく秋か来ました」と書いてあっても、頭の中ではきちんと「ようやく秋が来ました」ととらえている。誤字があっても意味を理解できるから、この文章は問題ない、と脳が誤解をしてしまうのでしょうね。

しかし、校正のプロは違うのだそうです。
文字を形、あるいは記号としてとらえるから、間違いがあると即座に発見できるのだそうです。
もちろん、文章をきちんと読んではいるのですが、そこに余計な感情を差し挟んだりしないから、頭が冷静な判断を下せる。そういうことなんでしょうね。

「間違いを見つける」という自分のミッションを果たすために、冷徹に、クールに文章を目で追っていく。やっぱりプロはすごい。職人を感じます。
どの分野でもそうですが、その道のプロは、プロであるための感覚や考え方をきちんと持っています。
それを取材で聞けたとき、私はすごくワクワクします。人間って面白いな、とつくづく感じます。

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